Saturday 5 January 2013

"Beau" (CDMRED333) - Japanese sleeve notes..

A bit exotic, but someone somewhere might be interested in the Japanese translation of Michael Heatley's sleeve note to the 2007 Cherry Red "Beau" reissue...

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ラジオ・ワンのDJ、ジョン・ピールと彼のマネージャー、クライヴ・セルウッドが1969年に設立したダンデライオン・レーベルは、彼らが好むやり方でビジネスを実践しようとした会社であった。そのテーマは利益を度外視して今まで一般の目に触れてこなかった才能を世に紹介することにあった。クライヴの本来の仕事はエレクトラ・レコーズのヨーロッパ支社代表であり、‘Dandy’(として彼は知られていた)がシンガーソングライターのジャンルを担当するのは自然な流れであった。そしてボウ、別名トレヴァー・ミッジリィはレーベル初のアーチストとしての栄誉に預かった。

ボウの音楽的キャリアは1960年、彼が14歳の時に始まった。彼はリーズでRaidersというグループを結成した。(彼はすでにその変なニックネームをクラスの先生から名付けられていたが、これは彼のウェブサイトに詳しく述べられている。) 彼らはシャドウズのインストゥルメンタルのカヴァーから始まって、騒々しいビートルズやストーンズのカヴァーに発展していった。‘僕らは金を稼ぐことができたから路上生活せずに済んでいたよ。’ しかし1964年、彼はブラック・アメリカン・フォーク/ブルースのパイオニアでジョニー・キャッシュからロニー・ドネガンまで影響を与えたレッドベリーを初めて聞き、ビート・グループへの興味を無期限に断ち、Hoyerの12弦ギターを購入しフォークとプロテスト・ミュージックに傾倒するようになった。

このジャンルは一人の男、ロバート・ジンマーマン(ボブ・ディランの本名)のアルバムによって大流行となっていた。しかし一方でトレヴァー/ボウはディラン・マニアとして後年知られることなったが(彼はディランのブートレグに関する本さえ書いている)、彼は自分が最も初期に影響を受けた音楽についての誤解を正そうと切望している。‘多くの人々は直接ドノヴァン/ディランにインスパイアされていたけど、僕はディランのコピーじゃなかった。実際僕はその頃ディランにそれほどハマってはいなかったんだ。僕が影響を受けたのはレッドベリーだった。僕の音楽は彼とは全く似ていなかったけど、彼が僕のインスピレーションの源だったし、ヴォーカルの面ではそうでもないけどギター・スタイルに関しては凄く上手く真似ることだってできた。僕がディランにハマったのは68~69年頃で、ありがたいことにそれは自分のソングライティング・スタイルが確立された後のことだったんだ。そんなわけでBeauの中にボブ・ディランは聞き取れないんだよ。ありがたいことだね!’

レコーディング契約を結ぶに当たって、エレクトラがボウの第一希望となったのは、‘彼らがレッドベリーのLibrary of Congressをリリースしていたからだ。それが特に僕の関心を惹いたんだ。’ 彼はまたそのレーベルの風変わりでさえある折衷主義を称賛する。‘奇妙な人たちがいたね。ジョー・ボイドはロンドンのサウンド・テクニクスでインクレディブル・ストリング・バンドをプロデュースしていたし、全てのレーベルがそういった音楽とミュージシャンの折衷的なミックスを実践しようとしていた。でも僕にとってのエレクトラはトム・パクストン、フィル・オークス、それからヒッピー・フォークシンガーでアコースティック・ギターとベルと笛を使うパット・キルロイっていう一人の男だったんだ。’
彼はクライヴ・セルウッドに4曲のデモを送り、テスト・レコーディングするためにロンドンに呼ばれた。残念ながらエレクトラとの契約の決定権はアメリカ人の設立者であるジャック・ホルツマンの手に委ねられ、アーサー・リー、パクストン、オークスらを抱えていたレーベルにとっては十分なアーチストを確保していた状況にあった。しかし1969年3月付の手紙で、クライヴ・セルウッドはエレクトラに代わってボウの不採用を通知したものの、その頃設立されたばかりのダンデライオンとの契約を申し出ていた。

それは第二候補としてベストなオファーであった―とりわけピールとのコネクションにおいては。‘僕は多くの人々がジョン(ピール)がレーベルを売り出そうとしなかったことに驚いていたと思う。’ トレヴァー/ボウは現在語っている。‘でも正直なところ、彼と一緒に働いてるってことが品質保証マークみたいなものだったんだ。BBCのDJとして彼は自分のレーベルのアーチストをプッシュすることはできなかったんだ。でも単にジョンと働くっていう事実がレーベルに信頼を与えることになった。ピールが海賊ラジオ番組Perfumed Gardenでかけていたような資質のアーチストだ。’

ボウは実際ピールとBBCを通じて1968年6月に地方局のラジオ・リーズのオープニングで、初のソロ・パフォーマンスを披露した。‘Jake Thackray、Puckっていうセキセイインコ、それから地元の有名人たちと一緒にね。’ 想像性に富んだタイトル、Beau and The World Of Beauで6つのショーからなるシリーズを2回務めるほどの人気を博した。Puckがどうなったかについては、ああ・・・残念ながら記録が残っていない。

1969年4月、ニュー・ボンド・ストリートのCBSスタジオで2つのレコーディング・セッションが押さえられた。ボウについてセルウッドは回想する。‘彼はいつも全く真面目だったね―いつも黒い服を着て現われるんだ。彼は間にちょっとチーズとリンゴを食べただけで、1日でアルバム1枚分をガンガン演奏してしまったよ。’ 専属エンジニアのマイク・ロスの手を借りて、少なくとも14曲が最初のセッションでレコーディングされ、2回目のセッションでボウはセッション中に書いた‘A Nation’s Pride’と、ショート・ヴァージョンの‘1917 Revolution’をレコーディングした。後者はボウとレーベルにとっての初のシングル・リリースとなった。
オリジナル・ヴァージョンの4分半の長さはラジオでのオンエアには長すぎると考えられたが、最終的にこれは維持された。クライヴ・セルウッドの妻シャーリーは、ラジオで好んでオンエアされたことについて、その時事的なテーマが要因だったと述べている。‘Street Fighting Man’よりもクライヴははるかに感銘を受けていた。‘べらぼうにいいレコードだよ。ギターは強力だし、声も歌詞も素晴らしい・・・’
8月にリリースされた‘1917 Revolution’は、その年の終わりにレーベル初のチャート入りにしてナンバー・ワンとなった―レバノンで!‘僕らはこれは何かの始まりに違いないと思ったね。’ クライヴ・セルウッドはいう。‘でももちろんそこから印税は一銭ももらわなかったよ。’(唯一ダンデライオン・リリースではメディスン・ヘッドのUKヒット、‘Picture In The Sky’が世界的レベルでチャート編集者を騒がせた。) しかしレバノンでのライヴ・ワークはトレヴァー/ボウがいうように、セールス・チャンスとはならなかった。‘週を追う毎に状況はワイルドになっていったね。だからとりわけ魅力的な仕事じゃなかったんだ。’ このアルバムのボウの唯一の伴奏はハーモニー製の12弦ギターで、これは前述したHoyer製のギターが彼のヴァンから盗まれた後に購入したものだった。盗まれたのはまさに彼がダンデライオンのオーディションを受けたその日であった。たまたまその晩、彼はレディング大学でギグがあった。彼は賢明にも2人分のガソリン代を最小限に抑えていた。彼はクライヴ・セルウッドを同乗させて家に帰ったことを覚えている。そのハーモニーのギターはアルバムのオープニング、‘Welcome’にすぐにインスパイアを与えることになった。ボウはリスナーのアルバムの第一印象同様に、そのギターが彼の人生に深く入り込んでいったと見ている。‘うちに着いてそのギターのメジャー・コードをアルペジオで弾いてみたんだ。すると流れるように豊かなサウンドが美しく響いてきたね・・・’

それに続くトラック、‘Imagination’はボウにとってはほとんど望まれぬ機会となった曲で、CBSのApril Musicが指揮監督していたダンデライオンの出版社、Biscuitがユーロヴィジョン・ソング・コンテストに推した曲だった。‘ありがたいことに落選してくれたね。僕はなぜ彼らがこんなアコースティック・フォーキーにチャンスがあるって考えたのかよく分からないね。かえって汚点になるようなものだよ。特に当時はね!’

1996年になって、1969年4月14日に初のCBSスタジオ・セッションでレコーディングされた未発表曲、‘Time’が、See For MilesレコーズのコンピレーションCD、‘The Dandelion Sampler 1969-1972’で日の目を見た。‘その曲を書いたのは覚えてるよ。でも正直いってそれをスタジオで演奏したのは覚えてないな。’ ボウはいう。ここではアルバムの中の1枚のシングルのB面である‘Sleeping Town’と共にボーナス・トラックとして収録されている。

ボウが回想するように彼のファースト・アルバムは―‘全てオランダのヒルヴェルスム(オランダ中部North Holland州の市、ラジオ・テレビ放送局が集まっている)で録ったよ。国外のラジオ局の方がUKよりはるかに多く僕の曲をかけてくれたんだ。’ 驚いたことに、彼のラジオ・リーズ・ショーの音源は南アフリカとマルタの放送局でも流されていた。‘彼らはなぜ僕の曲を流したんだろうね?僕には謎だね!もしかすると僕の曲がまさに英国的だったからかもしれないね。’

英本国に戻った彼には、セカンド・アルバムのレコーディングが待ち受けていた。クライヴ・セルウッドの提案により、彼は1970年代中頃まで共に活動を続けることになるレーベル仲間のTractor(以前のThe Way We Live)とグループを組んだ。‘もともとのアイデアはマイク・ハートがやっていたようなバッキング・スタイルを僕のフォーキー・スタイルに当てはめることだったんだ。’ その素材は彼が認めるように、‘もともとのシンガーソングライター・フォークとはまるっきり違っていた・・・全くシングル向きじゃないような曲だった。’ セルウッドも疑いなくその意見に同意する。

1970年にメディスン・ヘッド、ケヴィン・コイン、ブリジット・セント・ジョンと共にマイクロバスでドイツ、ベルギー、オランダをツアーして回ったにもかかわらず、‘ボウ’の名はすたれかかっていた。彼はめまぐるしく変わる情勢の中、姿を消し、‘new’アーチスト、ジョン・トレヴァーとして1972年に初めてダンデライオンからサンプラー・アルバム、‘There Is Some Fun Going Forward’をリリースした。しかし実際にはジョン・トレヴァーは別名ボウとして通用していた。
トレヴァー・ミッジリィはダンデライオンの終焉を悟っていたわけではないが、レーベルはその4年未満の活動をまさに終えようとしていた。‘僕の観点からいえば、僕自身とTractorが作った曲は僕が全てを所有していたんだ。僕らはアルバムを完成させてリリース待ちの状態だったけど、結局何も進展しなかったよ。でもそれにはおもしろい尾ひれがついていて、5~6年前に僕は2枚のCDでジョン・トレヴァーとして発表して、それがWFMUっていうハドソン・ヴァリーのニューヨークのラジオ局で取り上げられたんだ―実はダンデライオンのおかげでまだ効力を失ってなかったんだよ。’

彼が1975年にリリースした未発表アルバム、‘Twelve Strings To The Beau’からの数曲は1969年のレコーディングに加えられるもので、今回このCDに収められることになった価値あるものだ。そのうちの1曲、‘Miss Alice Preece’はトレヴァー/ボウの作品の中でもレッドベリーの影響が強く出た‘パーカッシヴな力強さ’のある曲だ。もうひとつの‘The Roses Of Eyam’は、ロイ・ベイリーの保護下にあるフォーク・クラブのスタンダードになった―これはダンデライオンより前にラジオ・リーズで‘The White Rose Song’として放送されたボウの看板といえる曲であり、彼の完成型といえる曲だ。

2000年に作られたトレヴァーのダンデライオン・ウェブサイトは、今日まで11万以上のアクセスを記録し、それは彼の初のブレイクとしてその借りを返済するものだ。‘僕はダンデライオンが僕を1人のアーチストとして自由を与えてくれたことに、限りない感謝をしているよ。’ 彼はコメントする。‘僕のアイデア、考え、歌をレコーディングする機会を与えてくれて、それを世の人々が楽しんでくれることに対してもね。そのウェブサイトのカウンターが今もみんなが楽しんでくれてる証拠だよね!’

Beau-tifully この辺りでペンを置くことにしよう・・Sir

Michael Heatley

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